イロトカタ

純然たるイロトカタです


私は歩いてどこへ行く

何回も同じ場所を行ったり来たりするのは、目的地が都度都度変わるからだ。

毎回いつもの場所に行って似たような事をするのは、目的がいつも同じだからだ。


大概の人は、同じ場所に何回も向かって帰って似たような何かをして、成長したり卒業したりする。


その繰り返しはいつまでも続く訳ではなくって、いつかはまた別の場所に行って似たような事をしたり、もしくは色々な場所を飛び回ったりする。

俯瞰的に見れば、同じ場所を何度も行き来して似たような事を何度もするって事は、「充電」だったり「密度」を高めていたりするよな行為に思える。


それに則って話を進めると「飽きた」とか「退屈」ってはのは、「充電済」や「限界まで密度が高まった」事を表すのだろうと思う。


飽きて退屈に入り浸る事は悪い事だ。充電された電池をいつまでも充電しても意味はないし、完全に修得した技術をいつまでも研鑽しても無駄だろう。



充電済でも、密度が完全に高まっても、そこから抜け出せないケースの事を「つまらない人生」というのだろう。



私は最終的にどこへ歩いて行きたいのだろうか。そんな事もわからないけれども、また明日も歩いていつもの場所に向かうのだろう。



その目的が充電なのか、密度を高めるのか、それともそこが最終到達地点なのか。そのくらいは自分の中でしっかり決めて向かおうと思った。



でないと、飽きと退屈は人を殺すのである。しかも恐ろしい事に何故か人間は「飽きと退屈」に慣れる事ができてしまう。

「あぁ、毎日つまんねぇな」と思いながら言いながらでも、人は1年でも10年でも一生でも生き続ける事ができてしまう。


人間は何にでも慣れられる代わりに、何でもドブに捨てる事もできてしまうのだ。



毎日歩いて行く先が、自分の大切な人生を捨てる場所になっていないだろうか?

とりあえず生きている錯覚を感じる場所になっていないだろうか?

何のためにそこに通っているのだろうか?



そこへ歩き出すには、当然、目的があるはずだ。人間以外の動物ならば、何らかの目的を持って歩きだすはずだ。

しかし人間は目的もなく歩いて行く事ができてしまう。それこそが偶然と発見という現象を発生させるかと思いがちだが、何かを見つける時は、それを欲しいと念じ続けている時だけだ。無目的で外をぶらついた所で見つかる事など何も無い。


大してあんまり変わらない毎日も、退屈な日々も、飽き足りた日々も、そんな苦痛を受けた先にたどり着きたい場所があるからこそ、明日も明後日も歩いて行くはずなのである。


せっかく歩くのである。目的地くらいは頭に入れて歩いていきたいものだ。