イロトカタ

純然たるイロトカタです


君が無能で居てくれるから、僕の居場所はここにある。

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偏りの集合体


君が無能で居てくれるから、僕の居場所はここにある。

これこそが人間関係の真理なのではないだろうか?

全ての分野において無能さを発揮する人間の価値は非常に低いけれども、ある一分野において有能であり、他の場面ではまるで役に立たない人間は結構な数で存在し、ちゃんと社会で生活している。


私やあなたがどんな能力の偏り方をしているのかは知らないけれども、そういった偏りを「皆が一つになることでバランスを取って前に進んで行ける組織」でないと世間を渡っていく事は難しいだろう。


重すぎれば沈むし、軽すぎれば弱いし、真っ直ぐにしか進めなければ行動を読まれるし、曲がってばかりでは目的地には辿り着けない。


そういった人達がそれぞれの能力の偏りをポジティブに個性と呼び、その個性の幅を多様性と呼んで、日々を強く生きるのである。

特徴には二面性がある

個性と多様性。これらを冷静に現実的に分析すると、また別の側面が見えてくる。


嫌な言い方をするならば、個性とは偏りであり、多様性もまた偏りである。

偏りが生じているという事は、突出している部分があるという事であり、欠落している部分があるという事でもある。


「個性という言葉」もまたポジティブイメージがメディアによって強められ過ぎた言葉であり、実際には「目立った特徴」という程度の意味合いでしかなく、特徴には長所も短所も存在するのだ。


ある特徴の長所が有能さであり、同様の特徴の短所が無能さである。

私が存在できるのは、他者の無能のお陰である

人は人の無能さに対してどう感じてどう行動するのだろうか?


見下すだろうか?嘲るだろうか?馬鹿にするだろうか?

まぁ、きっとそうするだろう。人は「自分が当たり前にできる事」に対しての評価には異様に辛辣だ。これが人間の怖さであり冷徹さである。その怖さに自覚がなく、「見下されて当然」と当然のように思考してしまう所にその恐ろしさはある。


人は自分の無能さには寛容を望むが、他者の無能さは簡単に嘲る。皆がそうとは言わないけれども、多くの人間がそうだからこそ、これだけ平和な世の中であっても罵詈雑言が絶えないのだろう。


冒頭の言葉に戻る。「君が無能で居てくれるから、僕の居場所はここにある。」という奴だ。


人は人の無能さに対して不寛容であり、冷酷な反応をしてしまうけれども、やはりそれは間違いであるのだ。

自分を取り巻く全ての人間が、自分よりも全てにおいて有能であれば、自分は完全なる無能であり、自分の居場所は絶対にない。

誰かが無能さを発揮してくれているからこそ、自分の居場所を作る事に成功できるのである。


隣人の不寛容に感謝して、仲間の優柔不断に感謝して、顧客の怠惰に感謝しよう。

だからこそ私は優しい人であり、リーダーシップがあり、顧客にサービスを提供できる人間で居ることができるのである。


誰かの無能に感謝したい。