イロトカタ

純然たるイロトカタです



理想を殺してまで現実を生きる必要はあるのか?


理想に生きるために

現実は現実であり、理想は理想である。それらが混ざり合う機会は極めて少ない。それを奇跡と呼んでも差し支えはないだろう。

現実と理想は同じ配分ではない。ほぼ「大部分の人間」の人生の大部分は現実である。多くの人にとって理想は現実が気まぐれを起した結果に過ぎない。

現実は至極現実的であるのだが、それでも人は理想に生きるために生きているのも確かだ。だが、努力の結果として誰もが理想を享受できる訳ではない。

理想に生きたい、そのために現実がある。ならば理想を殺してまで現実を生きる必要はあるのか?

そう考える人はきっと少なからず存在する事だろう。

世間知らず

「理想に生きた人達」

そういう言い方をするとその人達が全て素晴らしい人のように感じてしまうけれど、実際の所はそうではない。

まぁ、中には天才として生まれてこの世を理想的に生きた人もいるだろう。しかしながら、皆が皆、そうであったわけではない。それでも理想に生きるという行為を行うのであれば、「現実を無視する」「現実を捻じ曲げて解釈する」という代償が必要になる。

現実を無視しても、現実から受けるダメージが減る訳ではない。現実を捻じ曲げて解釈しても、現実そのものは何ら変わる事なく、その人の精神を揺さぶるのだ。

記憶や解釈を部分的に改変する事は人間の知恵であるが、今現在と未来までを自在に改変する能力は残念ながら人間には備わっていない。

だからこそ、今現在と未来までをも理想的に生きようと欲望すれば、儚く寿命を散らし、現実を現実的に生きる人達からは「無謀、世間知らず」などと侮辱されるのだ。

一緒に生きよう

だからといって、理想を殺して現実をただ現実として生きる事が賢い行いである訳ではない。理想が一切ない現実など、何のための現実だろうか?死んだ目で毎日を生きる意味なんてない。

そんな事を考えていると、もうこんな現実はすっぱりと捨て去って、やりたい事だけで生きてやろう!なんて発作的に思ったりもするのだが、きっと今の現実を全て捨ててもその先にもたくさんの現実が転がっているだろうし、今の現実にも案外素敵な理想が埋まっているのではないかと思っている。


「ないものねだり」と言えばいいのだろうか?まぁ人は同じ所で安心したい欲望する反面、いつまでも同じ所に居たくないとも考えるのだ。疲れる事は皆が嫌うが、疲れた後の休息が格別である。休息は誰もが望むが、それも続けば一種の牢獄になる。


理想も現実も、労働と休息のようなバランスで上手に両立できればいいのだと思う。無理してどちらか一方を殺す必要はないのかと思う。

理想7割でもいいし、現実7割でもいい。ただ、バランスを壊した物はこの世に存在する事はできない。それだけは確かだ。