イロトカタ

純然たるイロトカタです

全ての過去は空想だ。昔の事を思い出して苦しむ必要はない。

記憶の曖昧さ

人の記憶というものは至極曖昧なものらしい。

同級生だった友達と久しぶりに会って、昔の話に花を咲かせている時に出てくる記憶のズレ。どっちも自分が正しいと思って主張するけれども、互いが互いの主張こそを真実として疑わない。


学生時代の頃の記憶だって、そんな記憶のすれ違いがたくさんあることを私は認識している。しかしそれでも「大方の見解は一致しているよう」で、尚且つ「互いにそれなりの好意を抱いている」からこそ、継続的な楽しい人間関係が紡げているのだから、別段問題はないのである。


学生時代でも全ての体験を余す所なく完全に記憶している訳ではない私は、子供の頃の記憶なんて言ってしまえば皆無に等しい。

家族から「お前は子供の頃、こういう性格の子供だったんだよ」と言われてしまえば、「あぁ、成程そうなのか」と何の抵抗もなく受け入れるしかない。

そして、そんな根拠のない情報である「子供の頃の自分像」という存在から現在の自分へと線を引っ張ってみて、「だから今の自分の性格が形作られているのか!」なんて一人勝手に「論理もデータも不十分極まる推理」を行うのである。

解釈の曖昧さ

またまた、同じように同級生と再会する。

そんな時に飛び出す「同じクラスのあの人、お前の事好きだったって知ってる?」発言。これも定番らしい。

突然のスクープに驚く。何に驚くかというと「自分はその人から嫌われているのだと思っていた」という見解の相違によって驚く。

「自分が解釈して保存していた記憶」が実際の所はまるで逆だった事が人生の中では往々にして存在する。


人の心情と実際の行動は絶対に合致する訳ではないと自分自身が知りながらも、他者に対してそう捉えるのが困難であるのが人間の面白い所であるから、「他者に対する自己への評価」をたびたび誤るのも人間の面白い所である。

つまりは人間が何かに対して下す解釈なんてものは至極曖昧であるのだ。にも関わらず、その解釈を長い間の脳みそに保存してしまったりもするのが人間だ。

不都合な情報を何故抱え込むのか

で、自分の今までの人生を振り返ってみて「私はこの脳みそに幸福な記憶を蓄積できただろうか?」なんて事を思ったりする。

そらまぁ、良いこともあれば、悪いこともあった。そしてそれはどれも私にとって大切なものなのだろう。


しかしながら、もし「自分の脳みその中にある記憶の全て」が自分の事を苦しめるのであれば、その記憶という名の過去を後生大事に抱えている必要もないのではないだろうか?


先に挙げた通り、記憶とは曖昧なものであり、解釈とは曖昧なものである。

その曖昧性によって、誰にも迷惑を掛けずに自分を幸福にするのであれば、間違っていようが誤っていようが構わない。それは非常に素晴らしい個性だ。


だが、その曖昧性によって、無闇矢鱈と自分を傷つけて、さらには過去以上に価値のある未来にまで害を成してしまうのであれば、自分を不幸にするだけではないか。



全ての過去は自分の脳内にしか存在しないし、過去という記憶の解釈についても同様だ。言ってしまえば「脳内に存在する情報は過去であり、空想である」。


「その空想が現実の役に立つ」からこそ、過去と記憶には価値がある。


間違った知識を脳に蓄える事もできる、自分を苦しめる思想を脳に詰め込む事もできる。なぜなら「記憶や過去が属する情報そのもの」が曖昧なものだからだ。


悪い過去は捨ててしまえばいい。辛くなる解釈は変えてしまえばいい。何も悪い空想にしがみついて、これからの人生を苦しんで生きる義務などないのである。


せっかくだから、その空想に色を付け加えてやるのも面白いかもしれない。そしてそれが自分と世の中に対してより良い影響をもたらすのであれば、こんなに得な事はないだろう。

全ての過去は空想だ。ならばその空想に彩りと悦びを足しこんで楽しく生きるも人間の知恵である。


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