イロトカタ

純然たるイロトカタです



「結果至上主義」と「人生の満足度」の関係


人は輝かしい過程に満足したりする

厄落としなんて行事がある。

厄なんておよそ目には見えない物を落とすために、人は神聖な所に行って格式が高そうな人に、紙が付いた棒でフサフサしてもらう訳だ。

見えない物が体から落ちたかどうかを判別する事はできないので、厄が落ちたかどうかもわからないけれども、それでも新鮮な行事とそれっぽい何かを通した後に得られる充足感によって厄落としは完了するのである。


まぁ、要するに、目に見えなくても、明確な変化を体感できなくても、人はやりきった感覚に満足感を得るのである。だからこそ、怪しい健康食品や得体の知れない体操が流行したりもするのだろう。

信条をスイッチできるという強み

そんな現象を目の当たりにすると、結果を第一優先にするために、「人情も休暇も、もしかしたら家族をも犠牲にしてしまう生き方や社会」というのにも些か疑問が生じてしまう。


無論、生きるため食べるため他国よりも強くあるために結果は大事である事は確かなのだけれども、恐らく大半の日本人は食べるために生きている訳でもないし、富国強兵を目指して邁進している訳でもない。

ただ単に結果が大事という刷り込みが脳内で完璧に為されているから、そうしているというだけの論理である。

その割には厄落としや青汁やらの、本当に効果があるか定かではないけれど「やりきった感覚」を提供する何かに熱狂するのである。非常に矛盾している気がするのだが。



まぁ、その辺こそがクリスマスと正月を連チャンで頂く日本人の節操なさという事なのだろう。


結果を重視する時があれば、過程を重視する時もある。イベントや状況によって日本人は己の思考や信条信念までをもスイッチさせてしまう性質があるのかもしれない。全くもって柔軟である。だからこそ豊かな国に成り得たのかもしれない。

案外、人は幸せだけのために生きている訳ではないのかも


過程だけでは腹は満たされないし、結果だけでは心は満たされない。両方を満たしてこそ人間は人間足り得るのだから、それはそれで非常に合理的なのだろう。


結果だけではつまらないのである。きっと人間はそれを本能的に知っているのではないだろうか?だって幸福なんて快感脳内物質を常にいい具合に放出させるような研究やらなんやらが進めば達成できるのであろうから。言ってしまえば人生のチートである。


でも、そんな事を率先してやる人間は少数であるし、国のルールで禁じられている。そんな事を踏まえると人間は単純に幸せになるためだけに生きている訳でもないのかと思案してしまう。


幸せを追求するだけでは、人間は満足できないのかもしれない。