イロトカタ

純然たるイロトカタです

どこで生きても人はその環境に適応してしまう。だから歳を重ねれば重ねるほどに変化できなくなるのである。

洗練と環境と忘却

普通じゃない事を毎日繰り返しやっていると、いつの間にか無意識的に当たり前にできるようになる。それこそが「慣れ」であり、「成長」であり、「進化」である。

その環境でのできる限りの利益を出せる個体に変化できる人間が、多くの利益と繁栄を獲得するのだから、これはもう進化と言ってもいいだろう。


で、その「普通じゃない事」を当たり前に実行可能になるためには、やっぱり毎日繰り返し何度も動作を行い、体と脳みそに染み込ませる必要があるのだ。

でないと基本的に人間は何も身に付かない。というか身に付いてしまったら、それはそれで危険なのである。


限りある体の脳の容量を、適当な情報で満たしてしまっては将来何年間にも渡って生き続ける事ができるないのだから、余計な能力はできる限り「手に入れない能力」を人間は備えている。

それこそが「忘却、整理」であり、良く言えば洗練である。


つまりは「なりたい何か」があるのならば、「なりたい何か」だからこそやる行動を模倣する必要があるし、欲を言えば「なりたい何か」にならなければ生きていけない環境に身を置くのが良いだろう。そうすれば「成功」か「死」のどちらかがあなたを待っているだろう。

どこで生きようとも、そこに適応してしまう人間


そんな極論は置いておくとして、常々思うのは「人間が変化するって事は生きれば生きる程に物凄く難しくなる行為なのだなぁ」という事である。


10歳の人間には10年分の人生の重さがある。という事は20歳の人間には20年分の人生が重さがある。その重さ、実に二倍である。

これが30、40、と数を積み重ねれば積み重ねるほどに、その重量は増していく。その重さを愛おしく思う時もあれば、憎らしく思う事もあるだろう。どちらにせよ、その積み重ねてきた思いは生きれば生きるほどに重さを増していく。


言ってしまえば、生きてきた分だけ、その環境に最適化しているのである。その環境への進化が行われているのである。

平凡な環境ならば、それに沿った進化が行われる。平凡をより良く生きるための進化が体の脳内で勝手に行われるのである。ドラマティックの欠片もないけれど、それでも適応化という意味では人間はどんな環境でも日々進化を行っている。

生きてしまう弱さ、生きていける強さ

そんな平凡な環境で20年30年生きた人間が、「過激で刺激に溢れた環境」に憧れて、そこで生きて行きたいと考えた所でそれは非常に困難なのである。今までとは逆の進化が必要になるからだ。

人はそんな逆の状況に立たされた時、多くのギャップを感じる。仲間と楽しいひと時を過ごした後に訪れる寂しさのような精神的苦痛がきっとあなたを襲うだろう。それこそが自分自身の自分らしさを維持するための大切な機能であるのだが、その辛さは人生の重さ、つまりは「今まで進化してきた環境」とはまるで逆の方向に行けば行くほどに辛くなる。


大概の場合は、その心の寂しさや苦痛に押し潰され、今までの人生を否定する事を諦めて、今までの人生を肯定する事へと逃げる。


変わりたいのならば、行きたい場所があるのなら、望む人生があるのなら、できる限り早く行動した方がいい。長く「生きたくない人生を生きてしまった」のならば、苦痛を覚悟して勢いに身を任せて帰る場所をなくして飛び立つより変わる方法はないだろう。


人間の生きる強さは大層立派なものだが、だからこそ「生きたくない場所でも生きられてしまう」というデメリットも存在するのである。

だが、それをポジティブに考えるのならば、「生きたい場所に行けるタイミングが訪れるまで、耐え続ける事ができる」という特性でもあるだろう。


時と状況によって、物事はポジティブにもネガティブにも簡単に移ろっていく世の中だが、生き難きも生き易しも上手に使いこなして行きたい場所へ行き生きたいように生きられれば良いのだと思う。