イロトカタ

純然たるイロトカタです

ゴミを売る能力から考える「商人の才能」と「勝利方法」について

商人としての才覚とは

皆がゴミだと思う物から金が生まれる事がある。いや、ゴミとは言わないまでも、他者からすればほとんどゴミに近いような物を綺麗に直したり、セットにしたり、分解してお金になる部分だけを抽出したりする事で、それが立派な商品やサービスになる事は往々にしてあるのだ。

商品化の技能というのだろうか。商売の天才は水素水なんて商品まで開発して大金を儲ける事ができる。水素水の効果は世間から疑わしい要素が指摘されること山の如しなのだが、それでも水素水を信じて大金を支払う人間が後を絶たないから販売者は大儲けしているのである。


科学的に証明されていて、実際に効果も高い物。これを安価で手軽に販売する事は誰にでもできるのである。というかもうほとんど人の手を借りる必要性もない。


しかしながら、「疑似科学的で、効果も疑わしく、高価で、あんまり手軽でもない物」をたくさんの人の売りつける事ができる人間は商人としては有能である。世間から嫌悪される可能性は高いけれども、商人としての価値は間違いなく高い。

0を100にできる事が才能である

つまりは「当たり前に売れる物」を当たり前に売る人間に商人としての才覚はない訳だ。

その逆で、ゴミ同然の物を整形して高価にしたり、ゴミ同然の物を素晴らしい物だと相手に思い込ませて高価で販売する事ができる人間は、商人としての才能に溢れている。


きっと、善の心を政府による学校の道徳教育で磨き上げられている真面目な人からすれば、こういう話は毛嫌いするレベルのものだろう。


「素晴らしい物を不断の努力で作り上げ、それを手軽に安価で販売する事が人類への貢献に繋がる。それが人間として正しい行為なのだ」

とお考えの真面目な方々からすれば、やはり「商人としての才覚」というのは否定したくて仕方がないものであると思う。

勝利の前にルールと勝利条件を見つめよう

とは言っても、これは極論である。詐欺まがいの行為こそが素晴らしいとは当然言わない。

ただ、「不断の努力で素晴らしい物を作り上げる事だけが正しい生き方である」という考えには一言申したいのである。

そのルールで皆が生きるのであれば、「純粋に体力が旺盛で、知能が高い人間」だけが勝利する世の中になってしまう。

無論、体力旺盛で知能が高い人間からすれば、「それでいいじゃないか」という感じなのだろうが、世の中の大半を構成する一般人には旺盛な体力も高い知能も所有していない。

にも関わらず、高体力高知能が勝利するルールの中で戦って勝とうとするのは、何かズレているように思える。

悪いことをしろ、とは言わないけれども、奇をてらったような行為と発想で商売をしようと思考しなければ、絶対に勝利する事はできないのではないだろうか。

「努力と才能」が勝利を決める世界で生き残れるほど多くの人間は才覚に溢れてはいない。

ならば、ルールという枠組みそのものを嫌悪して疑って、その先にあるもっと勝利できるような決まりを作成した方が、まだ勝ち目はあるように思う。


ゴミを整形する。ゴミを良く見せる。自分独りでインプットからアウトプットまで完結できる。

それは不断の努力という視野狭窄的な行為ではなく、視野拡大や視る場所を変えるという新たな発想での考え方である。

勝利を追求する前に、勝利条件を追求する方が優先事項である。