イロトカタ

純然たるイロトカタです



一つの言葉でも人によって色々と意味や解釈が違ってくる理由は「五感と思考と脳内」が膨張させるから


コンクリートは自然の一部か?否か?

コンクリートジャングルは自然の一部なのだろうか?きっと自然であろう。

人間が作り出す環境と、それ以外の生物が作り出す環境はまるで姿形が異なっているから、まるで不自然であるかのような気がしてしまうけれども、人間も動物であり、その動物が作り出す環境はやはり自然なのである。

緑がなくて灰色にまみれていても自然である。自然の定義も時代が流れるのと一緒に自然に変化していくのである。自然とは「自分にとっての普通」もしくは「自分にとっての理想」くらいの意味くらいしかないので話半分くらいに聞いておけばよい。


自然とは何か?という話をするだけでも、真剣に事に当たればかなりの荒れ模様が期待されるのであるが、その原因は言葉の定義なんて結構みんな適当に扱っているからである。だいたいのニュアンスのアトモスフィアである。

文字から学ぶ言葉くらい正確に共有したい

正確に使用される言葉は専門用語とかの「文字で定義を伝達される言葉」である。というかこれを正確に扱えない人間は個性的でも何でもなく、まともに文字が読めず理解もできない馬鹿認定される奴である。文字から伝達された言葉は多くの場合みんなが正確に使用しているし、されるべきであるが、そうでないものの定義は非常に難しい。


「辞書に記載されている意味が絶対的に正しい!」という意見に私は賛同できない。言葉とは人間を主体に構築されるべきものであり、辞書を主軸にして人が右往左往するべきではないと考えるからだ。なんでもかんでも「辞書はこうだ!」とか言って、その場にいる人間同士との円滑なコミュニケーションを蔑ろにする奴はホントに面倒臭いのである。個人的にはコミュ障認定したい。

人間の五感と思考と感情が一つの言葉を多種多様にする

最初にその言葉を学ぶのが、辞書や文字からではなく、誰かの行動や身振り手振りである場合。つまりは抽象的な情報と言葉が結び付けられるケースが多い言葉ほど、人によって様々な意味や解釈を持ちうる。


例を挙げるならば、何だろうか?本当に何だろうか?わかんねぇな。いざ考え始めると浮かばん。困る。抽象的な情報だけ伝えて具体的な内容について伝えられないって結構アレだよな、他人から言われたら「あぁ、こいつ馬鹿だな」って思われるよな、ほんとに。どうして他人からやられると普通に憤れるのに、自分でもやっちゃうかな。「いい感じで!」とか「なるはやで!」とかホントに言わないように気を付けないとな。自分はまず言わないけれども、言われたら絶対イヤだ。



まぁアレだ。「笑う」という言葉一つ取っても、「頬の筋肉を引き上げている」と認識する人もいるし、「腹から甲高い声を出す」と考える人もいれば、「脳内からβエンドルフィンを放出させる」と発想する人もいるのである。


言葉で「笑う」ことの特徴を延々と箇条書きにする事は可能かもしれないけれども、社会生活の人と人との関わり合いの中では「君、笑ってるね」と言われた時の自己の状態の一部を切り出して、笑うという行為を理解しなければいけないのである。

ならば、「君、笑ってるね」と言われた側の人間が、何を中心として思考するかによって「笑う」という言葉の定義も変化するのである。気持ちを中心に考えるか、表情を中心にするか、声を中心にするか。その辺は、その人が五感の中で何を大切にするかによるだろうし、感覚よりも思考を重視するかによるだろう。


と言う感じである。言葉にしてみれば平坦で一辺倒な意味合いでも、五感と思考と感情を持ち合わせている人間に吸収されると、爆発四散するので人類全員が一つの言葉に完全に一致した意味合いとイメージを共有する事は不可能である。


ってな事で自然という定義についてアレコレ論ずるのは丁度良い所で終了にしてしまい、自分が自然を感じる空間でリラックスでもしていれば良いのだろう。