イロトカタ

純然たるイロトカタです

イロトカタ 201807021923



終わりの季節の美しさ。散らせる何かに思い込める。

桜の死と美しさ

今年もまたサクラが咲いて散っていく。新人も入社して散っていく。自然の摂理に人は逆らえないのだ。というよりかは、やはり人もまた自然の一部なのだ。と言った方が妥当だろう。

人は自然なのである。不自然とか言って都会をディスるがあれも自然である。散りにくいだけであって、いずれビルもマンションも大企業も何もかも散っていく。そして不思議な事に、散る事をためらって延命治療を図る生き物よりも、潔くさっさと果敢に散っていく方が鮮やかで綺麗に見えてしまうの。何故だろうか?


まぁ、綺麗に見える、と言ってもそれは観察者側の意見である。当事者の心情をまるで推測しない勝手な言葉である。「桜は散りゆく姿が美しいなぁ」なんて酒を飲みながら人は花見をするのだろうが、桜の側からすればたまったものではない。

何にでも擬人化をする文化はあんまり好きではないけれども、桜吹雪が舞い散る光景なんて、桜側からすれば同胞が大量に命を落としているような地獄の光景でしかない。その光景も見ながらその桜自身ももうじき散るのである。どう考えたって酷い有様だろう。


何でも深く考えると人間は正気には生きられない、という事なのだろう。人の命を無残に弄ぶ人に怒りを感じても、人は平気で鳥豚牛を無駄に無残に食い殺すのである。桜が死んでいく姿を見て、「あぁ、美しい!綺麗だ!」とかほざくのである。


人に対して無残な行為をする人間は、残酷な人間と評される。人以外の動物や植物の死にゆく姿を楽しめない人は、無粋と評される。ましてや、動植物の死に対して、深刻に寄り添い過ぎるのであれば、狂人と評されるであろう。


それが一般大多数の人間の、生命に対する善悪である。まぁ、これが正しいと言うつもりではないが。

散りゆく季節

そんな事を言った所で、私は桜の散りゆく姿に感動を覚えてしまうし、牛丼の美味たる事実に垂涎の至りなのである。それが本能的な物なのか、社会から刻み込まれた物なのかは知らないけれど。


何であれ、常識という拘束から完全に解放されると、逆に何かに縛られたかのように何も行動できなくなるのが人間だ。

だから常識という擬似的な正義で「自己の視界と思考を縛り付ける」ことにより、進む方向性を鋭くするのである。「これこそが絶対的に正しい!」と思い込めた時の人の行動力が凄まじい、という話だ。



そんな「絶対的な正しさ」をきっと、新社会人や新入生はこの春に鮮やかに散らされるのだろう。その景色をきっと美しいと賛美する人もきっと多く存在するはずだ。それが正しいと言うつもりはないが。


散る事がこそが美しい場合もあるし、散る事によって美しさを増す場合もある。春の桜が散る姿を美しいと思う私は、何を鮮やかに散らすのかを考えみてもいいかもしれない。


春は新しい事を始める季節であり、散らせる事によって何かを実現する季節でもある。

散った桜が何かに繋がりますように。