イロトカタ

純然たるイロトカタです

イロトカタ 201807021923



冨樫義博の代わりはいないのだろうか?

ハンターハンターという言葉の意味は「休載」である

また休載だと。何がって?言わなくてもわかるだろう。ハンターハンターである。

ハンターハンター=休載。休載と書いてハンターハンターと読む、と言っても過言ではないだろう。

昨日、お前国語の授業ハンターハンターしたろ?と友達に言えば、きっと「お前国語の授業サボったろ?」くらいの意味としてちゃんと通じるはずである。そのくらい休載のイメージが根付いている作品である。


休載が来る度に、多くのファンはガッカリし、連載再開が知らされると歓喜の声が湧き上がる。私は単行本派なので、休載の悲報はそこまで気にしないけれども、他のブログを読んでいたら、丁度休載の話を聞いたのでこの時ばかりは大変ガッカリした次第である。

芸術作品を越えた富樫

やはり面白いのである。そして何より続きが気になる作品なのである。にも関わらず休載を連発する作品なのである。ふざけんな!世の中おかしいだろ!需要と供給の法則わかってんのか!と言いたい次第である。

いくら需要が発生した所で、供給可能者が一人しか存在しなければ、やはりそれに縋るしかないのだろう。その一人は今の所、冨樫義博ただ一人である。これこそを天才と呼ぶのだろう。

後世になって、偉い人や学者に評価された芸術家よりも、よっぽど確たる人気によって証明されている天才性である。どこかの芸術家の絵は立派で綺麗な建物のど真ん中に、綺麗な額縁で飾らなければ賛美されないのである。それもテレビや雑誌で「どの点が素晴らしいのか?」なんて一々説明されなければ、その素晴らしさがわからない程度の素晴らしさである。ぶっちゃけその時点で大した事ないと思う。


それに比べて、冨樫義博のハンターハンターは雑誌レベルの雑な紙の適当な位置に掲載されているだけなのに、それ求めて止まない人々が溢れるのである。「どこが素晴らしいのか?」という話は同じくハンターハンターでも行われるが、その目的は「宣伝」でもないし「良さの解説」でもない。こみ上げる興奮と喜びを共有したいがための話題である。


と、ロクに芸術作品を鑑賞した事のない私が、さも芸術を見尽くしたかの如き口調で芸術を軽んじてまでハンターハンターを褒めそやした所ではあるが、やはり休載は許せん。許せん。許せん。



三回許せんを繰り返した所で、結局、冨樫義博先生が重くて辛い腰を上げない限りは何も話は始まらないのである。現状、他に代わりはいないと認識されているから、休載と再開に誰もが目を凝らすのである。

まともな最終回が来るのか?

休載と再開に目を凝らす事が我々が今行っている、健気な努力であるのだが、その方法だけではいつかはジリ貧になるのは目に見えている。

何が問題かって、「このペースじゃ、ハンターハンターという物語が綺麗に完結するまでに、人間の寿命が持たない」という事だ。

具体的な数値なんて抑えていないけれども、ハンターハンターの新刊なんて三年に一回くらいのペースでしか出ないんでしょ?その癖に、風呂敷だけどんどん広げるんでしょ?さらには魅力的なキャラとの因縁だったりの、「読者の読みたいシーン」なんかもまだまだたくさんあるんでしょ?

ようやくクロロとヒソカの対決を拝見する事ができたと言っても、まだまだ見たい内容はある。あるあるである。

単純なストーリー進行という観点でも、カメよりも遅い速度なので、ファン待望のシーンなんてのはまるで期待できないのである。


このままでは、ハンターハンターが完結する前に、ファンor冨樫義博の寿命が尽きて終わりである。そんな最終回は嫌だ。


という訳で何らかの対策を講じなければいけないのは、明らかに確かである。これは国が総力を上げて立ち向かうべき問題である。

言語化と娯楽のジレンマ

正直言って、冨樫義博先生にまともなペースで働く事を期待するのは無理だろう。あの方がどういった理由で休載を繰り返しているのかは知らないけれども、過去の実績がそうだと言っている。冨樫義博先生の天才性がどの作品を通しても揺るがない代わりに、冨樫義博先生の執筆ペースも揺らぐことはないだろう。

そして、「冨樫義博先生の連載を待つ」という戦略では人間の寿命が持たない事も先に挙げた通りだ。


ならば作り出すしかないのだろう、冨樫義博の代わりを。と思うのだが、どうすればいいのだろうか?それを行なうということは「冨樫義博の天才性を解剖して言語化して再現する」という事に他ならないのだろう。そんな事が可能なのだろうか?


というかこれはジレンマである。仮に自分が恋い焦がれる異性がいたとして、その異性の魅力の全てを言葉にして説明できてしまったとしたら、その時点で少し熱は冷めてしまうのではないだろうか?自分の心に残る、上手に言葉にできない感動があるからこそ、人は何かに惹かれるのではないだろうか?


という訳で、言語化できない天才性を解析するだけでも大変な労力が掛かるというのに、その天才性を自分の手中に完全に収める事に成功した暁には、その天才性に感動を覚えなくなってしまう、というジレンマ。中々に手詰まり感満載である。


持っていないから味わえる感動、という奴だ。それこそが芸術や映画やマンガの素晴らしさなのである。極上の恋愛を毎日のように体験している人にとって、恋愛マンガは無用の長物なのである。

祈る事しかできない

そんなこんなで、解決策としては「人工知能に冨樫義博という天才性を解析再現させる」とか、「冨樫義博に代わる天才を見つけて、その人にマンガを書いて頂く」くらいしか、ないのである。

私が天才的なマンガを楽しむためには、天才になってはいけないのである。不思議な事であるが、人間というのはやはり支え合って生きる社会的な動物という奴なのだろう。


じゃあ結局どうしようもねぇじゃねぇか!という事で今回はお開きである。

冨樫義博先生が健康の化身になり、バリバリ連載して頂く事をここにお祈り申し上げる。さらなる発展とご活躍をここに祈念する次第である。