イロトカタ

純然たるイロトカタです

「豚が宣伝する豚肉の広告」から考える罪悪感から逃れるための自己欺瞞について

罪悪感は食事を不味くする

「ボクを食べてブヒ!美味しいブヒよ!」みたいな広告って未だにある。そりゃあ少し言い回しは変わっているけれども、豚が豚自身の食肉としての価値を宣伝するような広告は健在である。

つっても、別に批判するつもりは毛頭ない。私は豚を食べるし美味しいと思うしそれを辞めるつもりなんて一切ないからだ。

だが、それでも何か不思議な気持ちになる。なんと表現したら良いのだろうか?哀愁というか寂寥というか、切ない気持ちになる。美味しく食べてる癖に何いってんだろう。意味わからん。


しかしながら、豚だって食べられたくて自ら料理に変身している訳ではないはずだ。できれば豊かに暮らして子孫を繁栄させたいはずだ。

それを我々人間は妨害して暴力を振るって豚の命を奪っているのだから、「豚自身が食べれる事を望んでいるような印象付け」は何か違うようなに思える。


そらまぁ、「いやだぁ、殺さないでくれぇ!!私にだって妻も子供もいるんだ!まだやりたい事だってたくさんある!」なんて吹き出しが書いてある豚肉の広告があったら、誰もその商品を購入しないだろうから、仕方がないと言えば仕方がない。

人が豚を美味しく食べるためには罪悪感という毒を取り除く必要があるのだろう。それとも現実逃避と呼んだ方がいいのだろうか?

自己欺瞞とブラック

人生は理不尽である。私は豚を見てそれを思う。

理不尽な目には遭いたくないけれど、他の生き物の理不尽には目を瞑りたいのが人間だ。豚は食べたい、でも理不尽は見たくない。その結果が「豚が行う豚肉の広告」という形で表現されるのだろう。

誰もがそれを間違っている事を知っているけれど、誰もがそれを指摘する事はしない。そういった心理が隠れているのだろう。

ブラック企業にしたって、それを経営している人間は実のところ大して罪悪感を抱いていないのではないだろうか?というか、何らかの自己洗脳や独自理論で罪悪感を消し去る作業を行っているのではないだろうか?労働を嫌がる社員を喜んで奉仕しているように脳が錯覚させているのではないだろうか?


そうやって現実を自分にとって都合の良い物に書き換えて行ける人間は善悪に関わらず強靭な精神を持っているように思う。

ただ思うだけ、それ以上のことはできない

植物であれ、動物であれ、何であれ。我々は何かを頂戴して体に取り込んで生きている。これから時代が流れてもその図式は変わらないだろう。生きるという事はそういう一面がある。その一面を拒否していこうとするならば餓死という結末しか待っていない。

餓死は嫌だが、罪悪感を抱えて生きるのも嫌だ。肉体的衰弱も精神的呵責も、どちらも人には耐えられないのである。

命を奪えば精神的呵責が待っている、とはいえ命を奪わなければ肉体的な寿命はすぐに終わりを迎える。それを回避するための自己洗脳、というか自己欺瞞を行う。その結果が「豚が行う豚肉の広告」であり「ブラック企業の社長のウザったいほどの善人アピール」なのである。

私はこれについて批判する事はできないし、どうする事もできない。ただ今だけは、それはぼんやりと私の脳内に浮かぶけれど食事と仕事の時間がくれば、すぐに消滅してしまうだろう。

ただ、思うだけである。それで変わる何かが変わる事はないだろうし、変えるつもりもない。

しかしながら、そのジレンマと欺瞞に他の人がどう向き合っているのかは多少気になる所である。


カテゴリー