イロトカタ

純然たるイロトカタです

自分とはまるで違う感覚、まるで違う前提で世の中を生きている人もいる


私が所有していない感覚でこの世を生きる人達

叩かれるのが好きだから、荒れるような文章を書く輩がいるらしい。
金の為なのか?と勘ぐってしまうけれども、実際の所、その真偽を確かめる事はできない。


争いや、いざこざの場が好きだから、警察になる人がいるらしい。
最近のネットの発達により悪事が暴かれる事も増えた次第ではあるが、それでも激務である警察の仕事を行なう人々の中には、そういう人もいるのかもしれない。


両者伴に、私の感覚ではあまり理解できない。

誰かから注目されたい、という気持ちが一切ない訳ではないけれども、それでも悪感情を一身に背負ってまで、みんなから注目されたいと望む事はない。

人が激しく感情を動かす瞬間を刮目したいと思う事はあるけれども、それでもそれが日常茶飯事となるような環境で生きたいと思う程ではない。


しかしながら、私がそう思うだけで、私以外の人がそう思わない訳ではない。現実として私の思考の範疇外の行動を取る人間は様々な場所に存在し、そういう人達が人類の役に立ったり役に立たなかったりして、今日も地球は回っているのである。

前提が違えば、話にならない

もう、大前提にある好みがまるで違うのである。そしてそれを我々が共有する事は難しいし、理解するのも難しいし、受け入れ合うなんて至難の技である。というか、人間なんてほとんど自分を中心にしか物事を考えられない生き物であるから、「どうしてそんな発言をするんだろう?」という事の本当の相手の意図なんてまず知る事ができない。


だから、単純に「嫌がらせ」とか「悪い奴」という抽象的な情報レベルで理解をストップさせる事しかできない。それ以上は自分の常識の理解の範疇を超えているからだ。自分の常識で考えると「嫌がらせ」とか「悪」という言葉でしか表現できないのである。そして、いずれその鬱憤が蓄積の限界を超えるのならば、その結末くらいはきっと誰にでも共通して想像できる事態に成り果てるだろう。


私が理解したのは「私が理解できないような思考ロジックで行動している人がいる」という事である。だからと言って理解できない人について理解した訳ではない。無知の知を知った所で、その無知の闇が晴れる事はない。私が私である限り、私以外について知る事ができないからだ。私が私以外に変化したのならば、その時の私は過去の私を理解できないだろう。永遠に終わらないパズルのような精神的葛藤を人はどう足掻こうとも抱えるのである。


私が私であるからこそ、私にはどうしても理解できない物があるという事実を認めて、「ただ、そうである存在」として冷静に無感情に対処すべき物事もあるのだ。